そもそも江藤が「フォニイ」に至る話題を出すきっかけは、その前段階として名前を挙げた遠藤周作の『死海のほとり』だった(これ自体はいちおう、小谷野著も68頁で触れる)。江藤が、遠藤の本領は深刻ぶらず軽妙に綴られた小説の方ではと提言した後、こう議論が続く。
中村 しかし遠藤さんが力を入れてるのは ”ぐうたらもの” じゃないですね。そこが問題です。力を入れるとうまくいかないという人が多いんじゃないか。 秋山 それはいわゆる ”内向の世代” の人たちにも通じますね。 江藤 本当に力を入れられればいいものが出来るはずだけれども、総じて力を入れねばと思って、義理で力を入れてるのが現状じゃないですか。 中村 すると動機が不純……ということ? 江藤 不純と言っちゃかわいそう(笑い)、動機は純粋でも、いろいろあたりを気にしてチョロチョロする。 (中 略) 平野 僕は動機が不純だと言ってもいいんじゃないかと思うな。(笑い)「沈黙」も「死海のほとり」も遠藤さんの表看板ですよ。その安心のもとに ”ぐうたらもの” で遊んでいられる。
『東京新聞』1973.12.11夕刊
議論の中身は明白で、遠藤のように「信仰を描く大作家」といったブランド・イメージが成立すると、そうした自己像を維持するための執筆にばかり注力する本末転倒が起きる、ということだ。いま風にいえば、真に訴えるべき主題よりも、メディア上の「キャラ」を優先するようになる。それがまた売れて……という悪循環の指摘である。
この後に、江藤が「遠藤、井上〔光晴〕両氏だけが矢面に立つのは少し気の毒だ。辻邦生、加賀乙彦、小川国夫の ”73年三羽ガラス” も同様ですな」として、後段の3名をフォニーと呼ぶ。本来は世代とは関係なく、読者ウケを狙って自分のキャラづくりをしてませんか? という問題だったのだ。
ところが小谷野氏は、論争の原文ではなく既存のイメージに引きずられたまま、辻と小川がフォニーと呼ばれたのは「歴史小説は「通俗」の疑いを掛けられがち」だからで、また江藤は「私小説派宣言」としてこの論争を行い、その伝統に背く加賀と丸谷を貶した、と論評する(70-71頁)。