この疎開計画は、政府の公式文書では「引き揚げ」と言い、戦場となる沖縄から足手まといとなる者を排除したのである。安全地帯へ避難するという意味のものではなく、県民の命を守ることよりも軍の作戦を優先した強制退去であった。

疎開は1944年7月から始まり、沖縄戦直前の1945年3月まで実施され、鹿児島・宮崎・大分・熊本などの南九州へ約65千人、台湾へ1万人余が疎開した。疎開学童は国民学校の3年生から6年生で、40人に1人の引率教師がつき、南九州へ約5500人、台湾へ約1千人の学童が疎開した。

「県民の命を守ることよりも軍の作戦を優先した強制退去であった」とあるが、ペリリューや硫黄島や国内都市部でのそれとどこに違いがあるのか、ここでの「説明の仕振り」「書き振り」も気になる。「敵襲・火災などによる損害を少なくするため、集中している人や物を分散すること」は須らく疎開である。また鹿児島県への疎開が少ないことに関して、こういう記述もある。

鹿児島県への疎開者が少ないのには理由がある。鹿児島県には、沖縄戦へ出撃する航空機の基地(秘密特攻基地)が十数か所も設営されていて、地元の人たちも排除されていた。沖縄からの疎開者が入る余地がなかったのである。

鹿児島県には沖縄戦へ出撃する特攻基地があったため、「沖縄からの疎開者が入る余地がなかった」とある。が、これこそ真に沖縄が「本土の捨て石」などではないことの証左である。特攻隊の戦死者は約6300人だが、その半数が沖縄戦だったとされる。これには45年4月5日に水上特攻で乗員の92%、3056人が戦死した戦艦大和の犠牲者や約1000人とされる護衛艦5隻の戦死者は含まれていない。

学童800人を含む疎開者約1700人を乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈される悲劇もあった。が、悲劇を競っても詮無いが、ポツダム宣言受諾後の45年8月22日に樺太からの引揚船3隻がソ連潜水艦に攻撃され。1700名以上が犠牲になった「三船殉難事件」もあったし、民間人の犠牲はサイパン陥落後の東京大空襲を始めとする日本各地への焼夷弾による空襲や広島・長崎への原爆投下など、枚挙にいとまない。これらも含めて、恨むべきは敵であり、戦争であろう。