20万人に上る沖縄戦の日米の戦死者の6割を占める12万人が、沖縄県民であったことは悲劇という他ない。が、「壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦」が「沖縄戦を長引かせ」たから、12万人の民間人が犠牲になったという文脈は、「説明の仕振り」として、また「書き振り」として果たして当を得ているだろうか。

「壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦」は、冒頭に揚げた『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』の「暦日表」で小室博士が記したように、44年09月15日に始まったペリリュー島の戦いで陸軍第14師団歩兵第2連隊約10,500名を率いた連隊長中川州男大佐が用いた戦法であった。この戦法によって、4日で落とせると豪語した米軍は、島の占領に2ヵ月半も要したのである。

小室がペリリュー戦を「その勇戦が硫黄島戦の手本となった」と書いたのは、アッツが17日、マキン・タワラが4日、サイパン・グアムが約3週間、テニヤンが10日と、悉く短期間で玉砕させられた轍を踏まぬよう、「壕に潜んでの持久作戦」を採り、敵の損耗を極大化する戦法の嚆矢だったからである。

硫黄島の栗林中将も、小笠原兵団長として44年6月に硫黄島に赴くや、水際作戦を廃してペリリューに倣った「壕に潜んでの持久作戦」を採り、米軍の猛攻を一月以上持ち堪えた。サイパンが落ちて激しさを増した本土空襲のB29支援基地としての、硫黄島の重要性を熟知した「持久作戦」であった。

ペリリューや硫黄島の「持久戦」が日本国民に賞賛され、これを指揮した中川や栗林は今もって英雄視されている。その一方、同じ「持久戦」がこと沖縄戦となると、「沖縄戦を長引かせ」たから、12万人の民間人が犠牲になった、との「書き振り」になるのはどういう訳か。

中川連隊長が米軍のペリリュー上陸の前に、島民を別の島に移住させたことは今もパラオ国民の語り草である。栗林も硫黄島の住民を本土に帰した。一種の疎開だが、疎開なら沖縄でも行われた。『読谷村史』に「県外疎開と島内疎開」について、政府は1944年7月に南西諸島から約10万人の老幼婦女子と学童を県外へ疎開させる計画を立てた、として以下のような記述がある。