初めて拉致監禁・強制棄教による複雑性PTSD発症の事例(エホバの証人信徒)を紹介した論文『宗教からの強制脱会プログラム(ディプログラミング)によりPTSDを呈した1症例(池本桂子・中村雅)』では、棄教によって「道義心」が傷つくことを報告している。こうした心理下で、棄教という選択を合理化し正当化するため、信仰していた宗教を攻撃しがちなのが背教者だ。
一神教への理解がない日本では知られていない問題であり、分かっていれば彼らの証言の扱い方が変わって当然であり、それ以上にケアまたは治療が必要な場面といえる。牧師らは拉致監禁と強制棄教は福音のためと信じきり、これを脱会コンサルタント、弁護士、ジャーナリストが政治的に、社会的名誉のために利用し、差別主義者の反カルト人員も利用してきた。棄教者も自己正当化のため利用した。
したがって、これらによって拉致監禁、強制棄教が肯定されたり、はたまた解散命令が下されるのはおかしい。
以上、統一教会糾弾が世界的にあり得ないとされる所以である。
シンポジウムの最後に挨拶した鄭日權大教会長は、「家庭連合に留まらない、すべての宗教、すべての集団と人にまつわる、日本の民主主義の危機」と語った。
鄭氏はキリスト教信徒の家庭に生まれ、信仰を継承し、徴兵を経て除隊後に統一教会に改宗した人物だ。シンポジウム後に鄭氏と話をした。最終的に解散せざるを得なくなったら粛々と受け入れるという鄭氏の発言から、民主主義の危機論を持ち出して大袈裟な表現で同情を買おうとしたのではなく、真摯に情勢を憂慮しているのが分かった。
以前から語ってきたように、私も糾弾報道や差別肯定を家庭連合に留まらない問題であると訴えてきた。だから、このことで誹謗されても、信徒ではないにもかかわらず問題を指摘し続けてきたのだ。
家庭連合の次に、他の人や集団が社会の域外に押しやられ、国のお墨付きを得て差別を「対策」とされる日が訪れるだろう。おかしいと気付く人はいても、自分も社会の外へ押しやられるのではないかと同調圧力を恐れて口をつぐむ。国家によって対策のため人権が剥奪されてしまっても、誰も助けてはくれないのである。