江藤淳『成熟と喪失』講談社文芸文庫、176頁 (単行本は1967年) 段落を改変し、強調を付与

敗けたならそんなもんだろ、って言えばそうだけど、最初に日本人が見たときは、そこまで傷を残す一枚だったわけだ。不幸にも、いま戦争していて敗けそうな国があるから、比べるとわかる。

くつろいで体勢を崩す長身のプーチンの隣に、直立不動の正装で立つゼレンスキーの写真が世界に報じられたら、ウクライナの国民は血涙やるかたない心地になるだろう。まして、昭和天皇はTVのコメディアンじゃなかったし、戦時中にSNSもやってないし、日本の庶民は玉音放送まで、声すら聞いたことのない君主だった。

前回の記事では、戦後の日本がいかに「母性社会」と呼ばれてきたかの輪郭を見た。その原点に、うちの国はもう強い父親像とかムリっす、と思い知らされた敗戦の体験があったのは、まちがいなく事実である。

とはいえ、われわれは生きないといけない。なんかもう「この人が立派な大人!」みたいなお手本っていないよねと感じても、時が来ればぼくらはみんな成人して、オトナであれと迫られる。

特定のメンタルの「病名」を、キラキラさせるのはもうやめよう。|Yonaha Jun
今年の2月に「「発達障害バブル」はなにを残したのか」という記事を書いた。2015年頃から流行してきた、精神疾患の中でも発達障害だけは「ギフテッド」(恵まれた特性)で、特殊な才能と一体なのだといった論調に、警鐘を鳴らす内容である。 いわゆる日本社会の「同調圧力の強さ」に対して、いやいや、自分の個性を認めてくださいよと...