新羅は、唐との関係が悪いときには日本に低姿勢となり、朝貢して潜在主権を認めたことになる任那の調などもってきたが、唐との関係が改善すると対等の関係を主張した。
753年には長安大明宮での朝賀で新羅の方が上位に置かれる事件があり、遣唐使大伴古麻呂が新羅がもともと日本の従属国であると主張し、唐もそれを認めて順位を入れ替える事件があった。
759年には、唐での安史の乱を見て、恵美押勝は渤海と手を結んで「新羅が本来、属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている」として征伐しようとしたが、恵美押勝と孝謙上皇との対立で実行に移せなかったのは残念なことであった。
日本の学者が「新羅侵略計画」と表現したのを見たことがあるが、日本の領土で侵略された任那を回復し、同じく友好国だった百済を復興するのを侵略というのは見当外れもいいところである。
そして、古代における事実上の外交的な交流の最後は、新羅の恵恭王が、779年に「任那の調」を持った使節を日本に派遣したときであった。
日本側は喜んだが、調子に乗って次回はきちんとした上表文を持ってこいと命令したところ、もはや新羅の使節は現れなかった。日本としては、最後に任那への潜在主権だけ確認して実質的には、幕引きにしたということになる。
『誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版』
安重根を「英雄」にして中国や韓国の指導者は後悔しないのか? 「朝鮮は日本の植民地だったか」と聞かれたら正解は? 「日本による朝鮮半島経営」が評価されない本当の理由 「書き言葉としての韓国語」は日本人が創り普及させた 「文禄の役」だけでなく「慶長の役」も実は勝ち戦だった 新羅は日本人が創った国だが新羅の日本への影響は極小 「正しい韓国史」の理解が日本の国益を守る最強の武器だ 任那の日本支配は中国の正史も認めている 百済は日本の大恩人だった?植民地だった?