それに怒った隋の文帝は、第一回の派兵をするが敗退した。跡を継いだ煬帝は612年に100万の大軍を送ったが、高句麗の将軍・乙支文徳が偽りの降伏をして油断させ、平安道清川江での「薩水大捷」という大勝利などで隋軍に壊滅的な打撃を与えた。これがきっかけとなって、隋では民衆が反乱を起こして滅びてしまった。この乙支文徳は韓国では李舜臣らとともに民族的英雄として尊敬されている。
唐が成立したのちも、唐の太宗は高句麗を攻撃したが失敗した。優位に立った高句麗は、百済とも協力して新羅を攻めた。
このころ、新羅では真平王に王子がなく、韓流ドラマで有名になった善徳女王(632–647)が即位する。これを助けたのが、祖父が新羅王だった金春秋とかつて任那の一部だった金官国王家から出た金庾信である。
これを見て、百済は新羅に取られた領土の奪還を狙って攻勢をかけ、日本や高句麗と結んだ。新羅は唐に百済との紛争の仲介を求めたが、かえって、女王を即位させたことを厳しくとがめられ、唐帝室から誰か男子の国王を派遣したいとまでいわれた。
金春秋は、日本、唐、高句麗を歴訪し生き残り作戦を模索し、648年に唐太宗と同盟関係を成立させることを決断した。つまり、属国化である。
自虐史観の学者があえて触れないので日本人が知らされないのは、コリアン国家がこの時期の新羅の決断によって、それまでの高句麗、百済、新羅と中国の王朝とのゆるい朝貢関係でなく、本格的に属国化されることになったということだ。
遣唐使や遣明使を派遣した日本も中国中心の冊封関係に組み込まれていたので、コリアン国家が置かれていたのと同じであるという人がいるが、これは二つの意味で間違いである。
まず、第一に、日本がそういう使節を派遣していたのは、2000年の歴史の中でごく限られた時期だけだということである。第二には、遣唐使のようなゆるい上下関係とコリアン国家の中国に対する強い従属性はまったく異質なものであるということだ。