新羅は、649年には唐の衣冠礼服の制度を採用し、650年に独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用い、姓も中国風の一文字に思い切りよく変えていった。
日本にも651年に新羅の知万という貢調使が、唐風の服を着て筑紫に着いたので、大宰府では非礼として追い返した。たかが服装と思われるかもしれないが、これは古代の外交上たいへんなことであった。
唐の高宗は百済を滅ぼし併合し(660年)、高句麗についても、内紛で莫璃支の地位に就けなかった王の長男が666年に唐に投降したので、50万の唐軍が27万の新羅軍の助太刀を得て高句麗を降伏させ唐に併合した(667年)。
百済の滅亡は金春秋が武烈王(654–661)として即位したあとであり、高句麗の滅亡は、その子の文武王(661–681)のときである。
よく間違う人がいるが、百済や高句麗の滅亡のときには、新羅は唐に助太刀をしただけで、唐が百済と高句麗を併合したのであって、新羅による統一戦争ではない。
唐は平壌に安東都護府(都督府より上位)を置き、半島から満州にかけてを全体的に統括させ、熊津都督府を置いて羈縻州(自治州)として百済最後の王である義慈王の子の隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使とし、新羅の慶州にも鶏林州都督府を置いたので、文武王は国王から鶏林州大都督にいったん格下げされた。
そこで、新羅では、670年から唐と戦うことにして、百済地域では有利に戦局を進めるため百済の貴族を重用し、高句麗の王子に高句麗王を名乗らせて(高句麗の故地でなく)全羅道に住まわせ、日本にも朝貢使節を出させた。
この戦いは唐が、高句麗の残党も与して建国された渤海や吐蕃(チベット)と紛争を抱えたので、新羅が唐と渤海との戦争に兵を出すことを条件に、大同江以南、つまり、百済旧領のすべてと高句麗領の一部を新羅領とすることで735年に決着した。
文武王の孫である聖徳王(在位:702年–737年)のときである。伝統的な歴史観では、これをもって新羅の三国統一の完成ということになるが、戦後になり、南北朝鮮で新羅と渤海の南北国時代に入ったという奇抜な解釈がとられるようになったので議論が混乱している。韓国史においては2000年のあいだ誰も主張していなかった奇抜な説明が突然登場するのはいつものことである。