実際、ある出来事の記憶は、それを担う特定の神経細胞の集団(エングラム細胞集団と呼ばれます)が経験後の睡眠中に再び活動(再現)することで脳内に固定されることがわかっています。

エングラム細胞とは、その出来事の最中に活性化し記憶の内容を符号化した神経細胞で、後でそれらが再び活動するとその記憶が想起される、いわば記憶の担い手です。

しかし、一つ疑問が残っていました。エングラム細胞は果たして出来事を経験したその瞬間に初めて選ばれてできるのでしょうか?

それとも実は、経験する前から将来の記憶の担い手となる細胞があらかじめ脳内に用意されているのでしょうか?

もし“予備”の記憶細胞が事前に存在するのだとしたら、それはどのように準備されるのでしょうか?

また、睡眠中の脳は過去の記憶を整理するだけでなく、未来の記憶を担う細胞を選抜・準備する役割も果たしているのか?

それも大きな謎でした。

この未知の問題に挑んだのが、富山大学の井ノ口馨(いのくち かおる)卓越教授(神経科学)とカレド・ガンドウル特命助教らを中心とする研究チームです。

彼らはマウスを使った巧みな実験によって、睡眠中に脳内で「過去の記憶の保存」と「未来の記憶の下準備」が並行して行われていることを世界で初めて実証しました。

脳は寝ている間に昨日の記憶を整理し、明日の記憶を密かに仕込んでいる

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図は、海馬CA1という“脳の図書館”を舞台に、赤と緑の丸で示された二つの神経細胞集団がリレーのように記憶を受け渡す様子を描いた概念図です。赤い丸はマウスが未知の空間を探索する「経験A」の最中に活動し、その出来事を符号化するエングラム細胞、いわば「昨日の記憶担当」です。稲妻マークは、まさにその細胞が発火している瞬間を示しており、体験の最中に記憶タグを付けていることを視覚化しています。一方、緑の丸は一見ふつうのニューロンですが、実は睡眠中にこっそり同期し始め、次の日に起こる「経験B」の記憶を担う準備を整える“エングラム予備細胞”です。図はまず、経験Aをする前の睡眠段階で緑の細胞がひっそりと結束を固め、続いて覚醒時に赤い細胞が一斉に発火して経験Aを記憶する場面を示しています。さらに、経験後の睡眠では赤い細胞が復習のように同じ発火パターンを再生して記憶を強化するのと同時に、緑の細胞が一段と結束を強めて「明日の記憶担当」へと昇格する過程も描かれています。つまり図1は、睡眠という一つの時間帯の中で、「昨日の出来事を固定化する赤い細胞」と「明日の出来事を待ち構える緑の細胞」が並行して働き、脳が過去の整理と未来への投資を同時にこなす“二刀流”であることを示しています。/Credit:脳が未来の記憶に備える重要なプロセスを発見— 睡眠は単なる休息ではない —