それを批判する知識人の言論も、戦後の秩序が「「偽物であることを自覚すること」(アイロニー)のコストを、被差別者(多くの場合女性的なものに比喩される)に預けるモデル」に陥り、出口を見失った。実効性のない綺麗ごとや、論敵を口汚く罵るだけの幼稚なふるまいすらをも、それでいいのだと甘やかし仲間うちで承認しあう「母子相姦的な構造」は、ある種のSNSからZINE(小冊子)まで、異論に対して閉ざされたサークルに浸透してゆく。
令和のいまは、どうだろうか。
示唆の深いことに今日、法制的には上皇の活動が「天皇時代に比べて大幅に制限される」裏面で、上皇后はほぼ「皇后時代と変わらない活動」ができるという。
もとより戦前の「大元帥」のような政治的決断者であることを、皇室に求める国民はもういない。しかし自ら決定できないものは、必然として自身の責任も負いえない。
だれひとり主体としては自立できず、したがって己の軌跡も振り返らず、回顧も内省もなしに集団としての自我に埋もれたまま、いつかすべてが忘れられて赦され、祈りの対象となる日を待っている――。