エコーチェンバーという用語がある。同じ意見の人だけで集まり、「だよね~、だよね~」「当然でしょ!」と思い込みを増幅させあう様子を、こだま(エコー)の響く部屋に喩えたものだ。

男も女も、どの国の人でもエコーチェンバーにはハマりうるのだが、不思議なことに、なぜか人はそれを性別や国の風土といった「自然っぽいもの」の表われだと見なしたがる。だから最近は「ホモソーシャル」といって、男だけの飲み会ノリみたいなものに、エコチェンの基礎を求めがちだ。

だけどその前はむしろ、同じものを「母性原理」と呼んでいた。言われ始めたのは、1970年代。なのでなぜ日本では、場の空気に合わせるのが絶対かというと、「日本人の男はマッチョさを誇るときでも、実は父性原理ではなく母性原理で、男の価値観を女の手法で伝えるからだ」といった、ややこしい説明をしたりもしていた。

母性社会論を広めた最大のスターは、心理学者の河合隼雄である。彼を批判した1997年の論考を、「女装した家父長制」というドキッと来るタイトルで銘打って、上野千鶴子氏は書いている。

誤解を避けたいなら、家族をメタファーとした「父性原理」「母性原理」のような用語法を使わず、簡明に「切断原理」「包含原理」……とでも呼べばよいのだが、「父性」「母性」の語が象徴的に持つ喚起力にかれ自身多くを負ってきたことはたしかである。 (中 略) この「母」がメタファーであって現実の女性とは独立していることは、フェミニズムが久しく強調してきた。問題は、この「母」のメタファーが誰によって用いられているか、言い換えれば、「母性原理」による権力の行使を行っているのは誰か、ということである。河合はそれに対してすでに答えを与えている。