疑問の余地はない。日本もまた家父長制の社会である。ただその権力の行使が「母性」の名において行われている分だけ、「敵」の見えにくいやっかいな相手なのである。

『上野千鶴子が文学を社会学する』123-4頁 2000年の単行本より(文庫もあり) 強調は引用者

5/15に刊行する『江藤淳と加藤典洋』の帯を、その上野さんが書いてくださったのだが、実は草稿の時点で、けっこう厳しい批判をもらったりもしている。序論で母性社会論の系譜を整理するのはいいけど、「お前はそれをどう思うのか」がはっきりせんじゃないか、というのもひとつだ。

……で、初校が済んでいたのに「あとがき」を(半泣きで)書き直し、その批判に応えもしたのだけど、そちらは刊行後に楽しんでもらうことにして、突っ込まれた箇所を今回は紹介しよう。私の立場はともかく、戦後日本の輪郭を描くレビューとしては、簡潔に要を得たものと思っている。

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2. なつかしい母の話

日本人で、桃太郎の民話を知らぬものはいない。しかしなぜ桃太郎は「祖父母」のみで両親の居ない家庭で育ったのち、鬼退治に出かけるのか。それは父の権威が弱い――とくに敗戦後の――日本では、成熟のための「父殺し」を、家の外に出て行う必要があるからだ。

たとえばそうした解釈が、まず60年安保の騒擾に際して持ち出され、さらに10年後の大学紛争の読み解きとして広く知られた。

70年代に不登校など、家からむしろ出ない若者が問題になると、原因を「母性社会」に求める認識はいっそう普及する。神との契約を守るかで正邪を峻別する父性的なキリスト教と異なり、「すべてがひとつとなって、主体も客体も、人間も自然も、善と悪とさえも区別がなく、すべて救われる」仏教は、「母なるものの宗教」だと説かれ出す。だから親離れも、子離れもできないというわけだ。