とはいえ、じゃあもう互いに妥協しあって「並存していきましょう」ということで、トランプとプーチンのディール(取引)で訪れるタイプの平和に、耐えがたい居心地の悪さのあることは拭えまい。なんの理想もないとも見える、両者のビジネスライクな勢力圏構想にも、同じことが言える。
もしかするとそれは、あのとき日米安保という「片面講和」を採った結果、奇跡のようにほんとうに平和が訪れ、憲法9条という「理想主義」に安住することができた日本とは、180度逆の正確な陰画であるのかもしれない。
先に引いた「三たび平和について」で、丸山眞男らが希望を託したのは、米ソの両体制がともにマイルドな福祉国家へと収斂する可能性だった。しかしポスト冷戦を経たいま、米国とロシアは「選挙のある権威主義」という斜め下の方向へと、悪い意味で収斂しつつあるようにすら見える。
どんな国の憲法典であれ、この世界の居心地の悪さを、文言をいじって解消することはできない。私たちにできるのは、タイミングのズレで戦争と平和がここまで分かたれる、歴史の残酷さを確認することでしかあり得ない。
両体制の実質的近似化ということが、現在の緊迫した情勢の下で、いかに空想的に見えようとも、将来の方向においてこれ以外の可能性は存しない。問題はただそれが平和的共存の途によってか、それとも戦争への途によってか、ということだけである。
そうして、前者が必ずしも人類の天国を約束しないとしても、後者が人類の地獄を意味することだけは確かである。