そこで国民の前に示されたのが、1951年、前年に勃発した朝鮮戦争がまだ終わらず、東西冷戦が厳しさを増すなかで、アメリカとの結びつきを占領の終了後も堅持して、アメリカに守ってもらうか(「単独講和」または「片面講和」と呼ばれます)、アメリカとのつながりをゆるやかなものにして、米ソ両陣営に安全を保障してもらう中立のあり方を追求するか(「全面講和」と呼ばれます)、という二つの選択肢でした。

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このように解釈されると、冷戦終焉後のウクライナをめぐるブダペスト覚書(1994年12月)というのも、ある種の「全面講和」だったことに気づく。ウクライナが旧ソ連時代の核兵器を放棄するかわり、同国の安全を米英ロの3か国が保障したもので、当時はそれなりにリアリティがあった。

1991年頭の湾岸戦争では、米ソの連携により国連が初めて機能したと言われたし、同年夏にはワルシャワ条約機構が解散した。東欧に幅広い「中立地帯」が実際に成立した状況で、ウクライナがその一部になろうと望んだのは不自然ではない。

NATOの東方拡大は99年が初で、ポーランドなど3か国のみだったから、それ以前の段階で「米ロの共同とは信用できない。明確にアメリカとだけ同盟すべし!」とする単独講和を唱えたら、かなり変な人に見えただろう。つまり冷戦後のウクライナは、「裏返しの戦後日本」として始まった。

冷戦の真っ只中かつ兵站基地だった独立日本と、それが終わった後の新生ウクライナ。どちらが「軍事同盟ではなく、中立政策で行けますかね」と訊かれたら、誰もが後者と答えたはずだ。それがどうして、反対になったのか。