高校卒業後の2012年、J1川崎フロンターレに入団。貴重なレフティーとして期待されていたものの、与えられたポジションは左サイドバックの控え。2シーズン所属したが出場機会には恵まれず、2013シーズン終了とともに退団。2013年は欧州への移籍を模索し、フランス、ドイツ、オランダのクラブのテストを受ける。しかし契約に至らないまま、浪人生活を送ることになる。
2024年5月に公開されたインタビューの中で、川崎時代パスミスを連発する田中に対し、中村憲剛氏(現川崎Fリレーションズオーガナイザー)から「俺にパスしたら大丈夫」と告げられ、逆に怒られなかったことにショックを受けたことを語っている田中。「俺、相当下手なんやな」と期待すらされていないと悟ったのだという。決して中村氏に悪気はなく、緊張する若手をリラックスさせるための言葉だったのだが、曲解した田中は深く傷ついたようだ。

誰にも相手されないJ2時代
“無職”のまま帰国した田中は、トライアウトの末、J3ツエーゲン金沢に拾われる形で入団を果たす。心機一転を期す田中はそのタイミングで、高校時代からのアダ名をミドルネームに含め、登録名を「田中パウロ淳一」とした。
同インタビューで、川崎時代から金沢入団に至るまで「メンタルはどん底だった」と振り返っている田中。金沢(2014-2015)ではリーグ24試合に出場し、チームのJ3優勝とJ2昇格に貢献したものの、途中出場が多くレギュラー定着には至らなかった。
翌シーズン、J2のFC岐阜(2016-2018)に移籍し、3年間在籍。一時はレギュラーポジションを奪取したものの、目立った成績を残せずに退団。その後もレノファ山口(2019-2020)、松本山雅(2019-2022)とJ2クラブを渡り歩くが、そこでも十分な出場機会は得られず、「誰にも相手されない時期だった」と田中本人も述懐している。
