そうした作業には、会報のコラム欄は狭すぎて向かないが、プロの作家なら書く媒体の伝手くらいあるだろう。まさにこのnoteのように、ネットで発信する手もある。差別の問題が重要であるからこそ、社会の全体に伝え、多くの人と考えることが、本来望ましかったはずだ。

対して、相手の名を出さずに当てこする短文を投稿し、普遍的な提言を装う連名での声明で数の力を誇り、威圧して異論を黙らせようとするなら、文学者として自殺行為である。要は「作家版オープンレター」のような顛末になりかねないが、しかしこれは日本の言論人の悪い癖ともいえる。

オープンレター秘録⑤ 日本のトランスジェンダリズムはこうして崩壊した|Yonaha Jun
2020年代の日本でTRA(Trans Rights Activists)、すなわち「トランスジェンダー女性は100%の女性であり、女性スペースの利用や女子スポーツへの参加は当然で、違和を唱える行為は差別だ」とする主張が猛威を振るったことは、後世、理解不能な珍事と見なされるだろう。なぜなら海外ではすでに、「ブーム」は退...

「私はトランスジェンダーを差別する!」などと唱える人にはまずお目にかからない以上、大事なのはトランスジェンダーとはなにかをきちんと知り、差別の定義を検証することだ。ところが、そうした知的な作業を放棄して、「トランス差別に反対!」とだけ叫んでおけば意識が高い論調に与したかのように、つい錯覚させる空気がある。

日本人は空気に弱い、とはインテリが言いがちなことだけど、この種の空気はむしろ、自分が「知的だと見られたい人」の方がはまってゆく。それはけっして、新しい現象ではない。

たとえば「核兵器はすばらしい!」という主張もまた、そこまで多くない(一定数はあるが)。そうであれば、日本の安全がいまどの程度、核抑止に依存しているかの実情を見極め、どのようにその現状を脱するかを理知的に考えてゆくことなしに、意味のある「反核運動」は生まれえない。