もう80年も前、敗戦を迎えた際に起きた集団的な転向と、同じように。

いつかは丸ごと「この時代にまともな民主主義はなかった」と否定されるのなら、よりよい民主主義をいまめざす努力も虚しくなろう。だからなんの矜持も、節度も、モラルも保つことなく、ただ折々の快感だけを最大化するように生きてゆく。

喩えるなら、それは社会の全体が幼児へと退行してゆくのに等しい。成熟にともなって幼少期の全能感を喪うのではなく、むしろ成熟することそのものを喪失して、国民がみな赤ん坊のような状態へと還る。

そんなとき、しばしば日本という国は、母のように想起される。

父性や母性なるものが「そもそも」あるのか、といった問いはひとまず措こう。重要なのは、戦後という時代に母性という「イメージ」で、私たちを包むこの不定形で背骨のない秩序が、繰り返し語られてきたという史実だ。

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参考記事:

歴史と民主主義の戦いでは、民主主義に支援せよ: 30年目の「敗戦後論」|Yonaha Jun
3/10の毎日新聞・夕刊に、川名壮志記者によるロング・インタビューを載せていただいています。先ほど、有料ですがWeb版も出ました。

特集ワイド:昭和100年 平成はどこへ 消えた「時代の刷新」 與那覇潤さんに聞く | 毎日新聞

歴史軸を失った私たち  ちまたでは「昭和100年」が話題になるが、へそ曲がりなの...