わかりやすく言えば、この国では後から来たものが、前に同じことを試みた人に敬意を払わず、否定してゆく。大正期には、明治の運動は十分に西洋的ではなかったと侮蔑され、昭和の敗戦の後には、天皇制と闘わなかった大正の民本主義に価値はないと嗤われた。先人を嘲ることで、「民主主義の伝統を皆して忘れようと努力してきたわけだ」。

では、戦後の民主主義は?

よかれ悪しかれ、私たちはいまもそれを営んでおり、戦前に政党政治が崩壊したようには「ゼロ」になっていないはずだが。

その問いについては、常に大著の現代史をものす社会学者が、こんなふうに書いている。

まず学ぶべきことは、過去の思想や経験を十分に理解しないまま葬ることの不毛さである。「あの時代」の叛乱において、若者たちは「戦後民主主義」をその内容も理解せぬまま葬った。戦後の思想や運動には、学ぶべき数多くの失敗や教訓や遺産があったにもかかわらず、それを学ぶこともなく過去のものとした。

小熊英二『1968 下』865頁。

価値としての戦後民主主義を否定した、1970年前後の学生運動についての記述だ。大学にバリケードが築かれ、それまで民主的だと尊敬されてきた教授たちが吊るし上げられ、自己批判を要求された。そこでは「戦後民主主義」という言葉は、時代遅れの腐敗した現体制を指すものであり、罵倒の対象でしかなかった。

そうした過去の切り捨てを積み重ねた結果、この国でなにが起きたのか?

歴史の消滅である。そうした環境はもはや、「無反省の体系」とさえ呼びうる。

どうせ後から来たものが、それまであったものを否定してゆくのなら、過去を振り返ること自体に意味がない。いまの勢いなら「これが許される」といった内輪のりの空気のなかで、好き放題をやり散らかし、しかる後に周囲と合わせたタイミングでいっせいに態度を変えれば、自分が責任を問われることなど、なくてすむ。