一方、数年前まで「実証史学ブーム」なるものがあった。それに踊った歴史学者たちに言わせると、過去は単にジッショーすればよい存在で、生きてるか死んでるかはどうでもいいらしい。「だからあなたの評論なんて、俺たちには必要ない。うおおおお今後も歴史学はジッショー!」と、失礼なメールをわざわざ送ってきた人もマジでいる。
で、大学で日本史を教えるその人の場合は、教室でどんな風に同じテーマを話すかというと、
「女子アナに宇垣美里さんっているじゃん? あのキレイな娘。この宇垣一成って、美里さんの先祖なの。ウッヒョー日本の歴史って面白くない?」
と、仰ってるそうな(本人がSNSで言ってた)。
さすがに現実の戦争を見て、どちらが要らないか、わかっただろうか?
どうやらぼくは、「面識がないままの人」と思い出を作る名人らしく、その最大の相手が今回の本の主題である加藤典洋さんなのだが、実は坂野さんとも、忘れられない縁がある。ご本人に会う前に、亡くなられちゃったけど。
その中身は、親しい人と吞んだときにだけ話す「とっておき」にしているので、ここには書かない。むしろ伝えたいのは、次のことだ。
目下の俗悪な歴史学者なんて「要らない」、彼ら抜きでも歴史のいちばん大事な部分は受けついでいける、とぼくがこれまで言ってきたのは、会ってすらいない人とも「書かれた歴史」を通じて、バトンを渡し・受けとる体験をしているからだ。それは、いますごく、励まされる考え方だと思う。
正解がわからず、自分のモデルにするべき人を見出せない時代が、現在だ。そんな中で、どうせみんなニセモノなんだから「そのとき勢いのある人に乗ればいい」「いや、逆張りして嗤えばいい」といったニヒリズムばかりが、広がっている。