「ポーランドはチェンバレンのように行動しない」とポーランド外相が語った、というニュースを見て、チェンバレン氏が可哀そうになった。

「チェンバレン」は「宥和政策」の代名詞として用いられる。ヒトラーのドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の併合を認めた1938年ミュンヘン会談で、ヒトラーと向き合ったのが、当時のイギリス首相チェンバレンであった。

1938年9月ミュンヘン会談 ベニート・ムッソリーニとアドルフ・ヒトラーと向き合うネヴィル・チェンバレン首相 Wikipediaより

俗説では、チェンバレンはヒトラーに騙されたお人好し、あるいはヒトラーが怖くて何も言えなかった腰抜けであるかのように扱われる。だが実際のチェンバレンは、ミュンヘンから戻った後「ヒトラーは狂人だ」と周囲に語り、ドイツとの対決に備えた大軍拡路線に政策の舵を切った人物であった。そして翌1939年9月1日にドイツが、独ソ不可侵条約締結時の密約にしたがってポーランドをソ連と分割併合するため、ポーランド侵攻を開始したのを見て、9月3日にはドイツに宣戦布告をしたのが、チェンバレン英国首相であった。

イギリスは、ポーランドのために、ドイツとの戦争を開始し、結果として大英帝国も崩壊させるまでに国力を疲弊させた。その大決断をしたのが、チェンバレン英国首相だった。

ネヴィル・チェンバレン首相 Wikipediaより

それが2025年の今日、ポーランド人にどのように扱われているか。宥和政策の権化の腰抜け扱いされている。

ポーランドのような国においても、あるいはポーランドのような国だからこそ、機微に触れる戦前・戦中の歴史の細部は捨象され、戦後の教科書の歴史観が標準とされてしまう傾向があるのだ。