結果として、

小麦や油の消費が急増 コメの消費量は減少 それでも農家は国が買ってくれるからと米を作り続ける

こうして「米余り」が深刻化していった。

3. コメを国が一元管理していた「食管法」とは?

この米余りを支えていたのが、戦時中に制定された「食糧管理法(通称:食管法)」だ。 1942年に施行され戦後の食糧難期を経て、日本の農政の中核制度として長く機能してきた。

この制度では、

政府が米を農家から一定価格で買い上げ 消費者に一定価格で販売 差額は税金で補填(=財政負担)

つまり、政府がコメの流通と価格を完全に管理していたのだ。米の自由取引は原則禁止で、農家も流通業者も、すべて政府のルールに従っていた。

食管法の功罪 メリット デメリット 米価の安定、食料確保 市場原理が働かず、コメ余りと財政負担 農家の収入保障 巨額の税金で支える「官製農業」化

この制度は、戦後の飢餓を克服する上では極めて有効だったが、時代の変化とともに、次第に矛盾と弊害を抱えるようになっていった。

4. 減反政策と構造的コメ余り

米が余りすぎたことで、政府は1970年から「減反政策(生産調整)」を始めた。 農家に「田んぼを休ませて」「米を作るのをやめて」とお願いし、その代わりに補助金を出すという制度だった。

この政策は実に40年以上にわたり続けられ、農家の経営は「米を作らずに収入を得る」という、ねじれた構造になっていく。

やがて、

若い担い手が農業から離れる 田んぼが荒廃 稲作の技術継承が困難に

という副作用が広がり、日本の農業基盤が静かに、しかし確実に弱っていった。

5. そして1995年、食管法が廃止される

1995年、日本政府はついに食管法を廃止し、代わって「食糧法」を導入した。 これは農産物の自由流通を基本とする制度で、政府の価格統制はなくなり、農家と業者が直接取引できるようになった。