1998年に当時フランス1部のセリエAに所属していたペルージャ・カルチョ(現セリエC)に加入した中田は、デビュー戦で強豪ユベントス相手に2得点を挙げるなど鮮烈なスタートを切った。中田は同メディアで当時のイタリアサッカー界について意外なほど無知だったことを告白しているが、これは彼の強みでもあったのではないだろうか。
サッカーファンではなく、試合も観ず、名選手の名前も知らないという中田のスタンスは、日本人特有の謙虚さではなく本質的な彼の姿勢だったと考えられる。権威や評価に囚われない自由さが、彼の創造的なプレースタイルを支えていた側面は大きい。度重なるマスコミ批判を展開してきた彼の対応からもそれはうかがえる。海外で成功を目指す日本人の多くが憧れや目標を語ることが多いなか、中田はそうした「外部参照」を持たなかった稀有な存在だったといえるだろう。
そして彼のその個性的な性格が示すように、プレー以外の部分でイタリア文化そのものに惹かれていったように感じられる。時間に縛られない生活様式、美意識に貫かれた建築やファッション、食文化。中田が同メディアで語った「今でも半分が日本人で、半分がイタリア人」という感覚は、単なる適応を超えた文化的共鳴だったのではないだろうか。

情熱を失った瞬間
2006年ドイツW杯で日本はグループリーグ敗退。ブラジル戦後のピッチに倒れ込む中田の姿は、サッカーファンの脳裏に焼き付いている。しかし、実はその半年も前に引退を決めていたという事実が後に複数のメディアで報じられてきた。これは、中田の決断がW杯での結果に左右されたものではなく、彼自身の本質的な部分からきていたことを示している。
多くのアスリートが引退の理由として「体力の限界」や「怪我」「世代交代」といった外的要因を挙げるなかで、中田は純粋に内的な基準で判断した。それは彼のキャリアを通じて一貫した「自分の感覚だけに従う」姿勢の延長線上にあったと言えるのではないだろうか。