中田英寿 写真:Getty Images

2002年に開催されたFIFAワールドカップ(W杯)。日本と韓国で共同開催されたこの大会、自国開催の熱狂の中心には日本代表の背番号7を背負った中田英寿(2006年引退)がいた。唯一無二の経験と存在感、ブレない言葉、そして力強くもサッカーの醍醐味を感じさせる美しさを伴った独自のプレースタイル。「中田英寿」という名前は、サッカーという枠を越えて当時の日本文化のある種の象徴となっていた。

その男が、わずか29歳で引退を決断したことは全世界で驚きを持って伝えられた。代表としての最後の舞台となった2006年ドイツW杯。敗戦直後のピッチに横たわり、涙を拭った姿は多くの人の記憶に今もなお焼き付いているはずだ。実力も人気も頂点にあった男は、なぜキャリア途中ともとれるタイミングで引退したのか。ここでは、彼の哲学と生き方について考察していきたい。


中田英寿 写真:Getty Images

導かれたスタート

1993年にJリーグが開幕し、日本にプロサッカーがようやく根づき始めた頃、中田は山梨の地でボールを蹴っていた。アメリカのニュースメディア『The Athletic』のインタビューで「夢や目標としてのサッカー選手像を持っていなかった」と語っているが、これは彼のキャリア全体に通じる重要な視点だろう。多くのアスリートが「幼い頃からの夢」や「憧れの選手を目指して」といった理想のストーリーを描くなかで、中田のプロキャリアのスタートは目的ではなく導かれたものだったのかもしれない。

1995年に18歳でベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)に加入し、AFCアジアカップウィナーズカップで決勝ゴールを挙げる活躍を見せた中田の才能は、当時から国際的なプレーヤーとしての実力を予感させるものだったのだろう。計算された野心の産物ではなく、純粋なプレーへの没頭から生まれたものだったと考えられる。この「目的意識のないピュアな気持ち」こそが、後の彼の判断基準となっていくのは興味深い点だ。


中田英寿 写真:Getty Images

「半分がイタリア人」