結果として「弥助は巨漢で、扶持も脇差も与えられた名だたる武士だった」という話が大きく広まり、独り歩きしてきました。
しかし、最初期の写本――たとえば〈池田本〉など迷路の入り口付近にある資料に目を向けると、そこには「黒坊主」という呼称しか書かれていないのです。
肌が黒く、頭を剃っていた、ただそれだけ。
ところが江戸時代の〈尊経閣本〉になると、「黒坊主」の“主”が削られて「黒坊」と表現されるようになり、そこに「弥助」という姓名や扶持、私宅、脇差授与といった豪華なエピソードがこってりと上書きされています。
つまり、「黒坊主から黒坊へ」と一文字が省かれただけで、本人の役回りまで塗り替えられ、“伝説の人物”へと早変わりしてしまったわけです。
江戸時代には、講談や軍記物でヒーロー像を盛り上げることは珍しくありませんでした。
しかし、その“盛り”を現代の私たちが史実として受け取り、世界中のメディアが「黒人サムライ」の物語を発信しているのは問題だ、と研究者たちは指摘します。
さらに「扶持があるからサムライである」という論法も危険だといいます。
そもそも「サムライが扶持をもらうのは当たり前だが、扶持をもらっている人すべてが武士とは限らない」のです。
戦国期・江戸期には、下働きの者や相撲取りでさえ扶持を受け取っていました。
加えて“六尺二分=約182センチ”という数字も、「実際に測った」というよりは「とても大柄な人」を示す当時の決まり文句で、正確な身長を記録しているとは限りません。
このように、江戸時代に大きく“盛られた”〈尊経閣本〉が、AIの学習データや海外メディアの記事にも引用され、いつの間にか「弥助=黒人サムライ伝説」が地球規模で固定観念になっていたわけです。
ところがこのたび、非改変確率1.3%という数値が出たことで、“黒人サムライ”像の土台が実は砂上の楼閣だったかもしれない、という見方が急浮上しました。