勝手掛(財政担当)老中だった松平輝高の死後、忠友が勝手掛の老中格に任命されたが、忠友は意次に引き立てられた田沼派であるため、意次が経済政策を主導した。意次は嫡男意知を奏者番に登用し(天明元年12月15日)、権力集中を進めた。松平輝高が死去した天明元年に、田沼意次の幕政掌握が完成したと言えよう。

4. 田沼意次台頭の背景

家重時代の宝暦期までは、幕府は享保の改革を引き継ぎ、農政を重視し年貢増徴(増税)を図ったが、これが宝暦8年の美濃郡上一揆の遠因となった。年貢米を多く取り立てるという形での財政再建の限界が露呈し、幕府は商業課税に重点を置くようになる。

この流れを見据えて、商業資本との提携(癒着)を積極的に進めることで権勢を拡大していったのが田沼意次である。全国的に殖産興業が盛んになる中、意次は幕府として政策的に殖産興業を推し進めていく。

武州大師河原村の名主である池上幸豊が甘蔗(サツマイモ)の栽培および製糖計画をたて、幕府の援助を仰ごうとした際の明和3年12月の幕府勘定所への願書は意次の家臣井上寛治を通じて提出されている。上の事実は池上の発案に御用取次の意次が私的に関与・同調していたことを示しており、若干の曲折はあるものの意次の側用人就任(明和4年7月)後の同5年3月に勘定所が許可している。

もともとは本草学者であり、学術的な関心から物産の採集・研究を行っていた平賀源内が、明和年間には鉱山事業家として活動するようになるのは、田沼意次というパトロンを得た結果、意次の鉱山開発政策に貢献することが求められるようになったからである。

意次が側用人に就任した明和4年頃には、幕府の経済政策は、従来の農業重視から明らかに転換しており、そこに意次の関与を見てとることは難しくない。この時期には「田沼政治」は始まったと見てよいのではないか。その背景には幕府の財政危機があり、財政改革の必要性は幕府内で共有されていた。意次は将軍の寵愛を笠に専横を極めた君側の奸ではなく、幕府の財政問題を解決し得る改革派官僚として台頭したのである。