明和4年(1767)7月1日、49歳の意次は側用人となり、加封とともに相良での築城を許され、従四位下に叙された。明和6年(1769)8月18日、老中格として幕閣に列し、侍従に任じられ、5,000石加増で実禄2万5,000石となった。この際、側用人を辞したが、実質的にその役割を代行し続けた(この時期、側用人は不在)。安永元年(1772)1月15日、54歳で老中に列し、5,000石加増で3万石となり、依然として将軍に近侍する立場を保持した。この時点の先任老中には松平武元、松平輝高、松平康福、板倉勝清がいた。
安永6年4月22日、意次は7,000石の加増をうけた。同日、若年寄の水野忠友が側用人に進み7,000加封(実禄2万石)され、従四位下に叙し、駿河国沼津に城地を築くことを許されている。忠友は家治の小姓を振り出しに、ほぼ意次と似たコースを歩み、小姓組番頭格、御用取次見習を経て側衆に昇進し、明和5年に若年寄に進んだ。その後、安永3年7月に意次の四男(のちの田沼意正)を養子にむかえ、自分の娘と結婚させている。このたびの昇進・加封・築城はこの意次との関係によるものといえよう。
意次の昇進は、側用人から老中への道を開いた初の事例として注目される。従来、側用人は将軍の私的機関に属し、譜代大名が独占する老中への昇進は困難だった。例えば、柳沢吉保は大老格に任じられたが正規の老中にはなれなかった。大岡忠光は若年寄を経て側用人となる先例を作ったが、老中にはなれなかった。意次はこれを上回り、正規の老中として幕府の執行機関に参画しつつ、側用人的性格を維持した。この意次の立場を当時の史料で「奥兼帯老中」(奥勤め兼任の老中)といった。
2. 田沼意次の閨閥戦略
田沼意次は姻戚関係を駆使して権力基盤を強化した。長男意知は老中松平康福の娘を娶り、四男忠徳は水野忠友の養子(後の田沼意正)となり、その娘と結婚した。六男雄貞は土方雄年(伊勢薦野藩主、1万1,000石)の養子となり、七男隆祺は九鬼隆貞(丹波綾部藩主、1万9,500石)の養子となった。三女は西尾忠移(遠江横須賀藩主、3万5,000石)、四女は井伊直朗(越後与板藩主、2万石)に嫁ぎ、養女(意次の妹婿新見正則の娘)は大岡忠喜(武蔵岩槻藩主、2万石)の継室となった後、土方雄年に再嫁した。これにより、意次は家格の向上と幕閣への影響力を確立した。