安永8年(1779年)7月、老中首座(筆頭老中)松平武元が没すると、意次の権勢は急上昇した。『続三王外記』は「武元死後、家治が政事を意次に委ね、百僚が意次に敬事し、事の大小を問わず意次が決裁した。新たな筆頭老中の松平輝高と次席老中の松平康福とは名ばかりの存在だった」と記す。
天明元年(1781)、将軍徳川家治の嫡男の家基が18歳で急死し、一橋豊千代(後の家斉)が後継に選ばれた。この決定に意次が深く関与した。意次の弟・意誠は一橋家家老を務め、意誠の死後はその息子である意致(意次の甥)が後を継いでいた。一橋治済の側室で家斉の母・お富の方の実家(岩本氏)は、意次の父意行と同様に吉宗に随従した紀州藩士の家系であり、意次と縁故関係にあった。竹尾覚斎の随筆『即事考』によれば、お富の方が一橋家に入った経緯に意次が関与し、家斉誕生の背景に複雑な噂があったとされる。
これらの事実から、家基の早世という想定外の事態に直面した意次は一橋家との提携によって危機を乗り切ったと推察される。松平定信が将軍後継候補として挙がったが、意次と治済の連携により豊千代が選ばれたとする見解もある。
3. 田沼意次による幕閣掌握
意次の異例の昇進の要因として、将軍の信任、贈賄による大奥の懐柔、姻戚による幕閣支配などが挙げられる。安永8年から天明元年、先任老中が相次いで死去した(松平武元が安永8年7月に67歳で没、板倉勝清が安永9年6月に75歳で没、阿部正允が安永9年11月に65歳で没、松平輝高が天明元年9月に57歳で没)。天明元年末には意次の縁戚である松平康福のみが残り(筆頭老中)、意次は次席老中に昇格した。
天明元年、豊千代の世子決定への尽力の恩賞として、意次は1万石加増されて4万7,000石を領した。同年閏5月11日と9月18日、幕閣人事の大異動が2度行われ、意次の縁故者(水野忠友、太田資愛、井伊直朗、久世広明ら)が要職に就いた。