戦後80年の夏が近い。意外にもそれは、久しぶりに歴史が政治と噛みあって、大きな変化を起こす転機になるかもしれない。
思えば戦後40年にあたる1985年の終戦記念日には、中曽根康弘首相による靖国神社の「公式参拝」が波紋を呼んだが、国内政治の変動につながることはなかった。戦後50年だった95年は、社会党首班の村山富市首相による「談話」で知られるが、これも前年に生じた連立組み替えの結果で、そこから新しい政治が始まる性格のものではない。
戦後60年の2005年の夏は、小泉純一郎政権が「郵政民営化政局」(8月8日に衆院解散)に突き進み、歴史などは話題にすら上らなかった。戦後70年にあたる15年は安倍晋三政権だが、このときも安保法制の国会審議が山場を迎え(9月に参院で可決・成立)、国民の目線は過去より現在に集中している。
だが2025年、石破茂首相の下で自公連立は少数与党に転じており、7月の参院選は衆院とのダブル選挙も予想される。次なる政権の選択と、戦後80年を迎える姿勢の当否が絡みあい、大きなハレーションを起こす可能性はゼロではない。長い忘却から甦って、ふたたび「昭和史」が政治の現場を揺るがす事態は、起きるだろうか。
昨年、本誌の連載をまとめた浜崎洋介編『絶望の果ての戦後論』(啓文社書房)を、文学から読み解く戦後史の試みとして印象深く読んだ。もしいま同書に新たなリクエストを寄せるなら、むしろ「希望」を戦後の小説から読み出す営みは、あり得ないのか――。この問いに尽きよう。
編集部のご厚意を得て、5月に刊行する拙著『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』(文藝春秋)から特に、この夏の政治と歴史の帰趨を占う一章を先行して公開したい。本誌が口火を切って、歴史を踏まえて政治の変革を論じる季節が再来することを期待している。
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