2020年からコロナが広まったとき、しゃかりきにそれを「コントロールしよう」とした結果、いまだに全員マスク姿のサービス業が続いているのは日本だけだ。22年からのウクライナ戦争では、戦後由来の諸々で日本は「コントロールできる」範囲が狭かったけど、逆に結果として割合よい感じのポジションに、いま居るのかもしれない。
歴史はもう「なくなってもいいのか」といったことを、ぼくはここ数年考えてきたわけだけど、なくなったらマズいのはこのコントロールできないものがあるという感覚であって、歴史それ自体ではないのかもしれない。だいたいそのあたりが、結論になりそうな気がしている。
一身にして二生を経る、という福沢諭吉の有名なことばがあるけど、もちろん生物学的には、一生しか経ているはずはない。なんで「二生を経る」と言ったかといえば、自分を取りまき拘束する「時代のあり方」として、1種類でなく2種類、つまり江戸と明治とを体験したんだよ俺らは、という意味で言っている。
戦後とポスト戦後、昭和と平成というのも、かなり「二生を経る」のに近いほど大きな違いで、いまやポスト・ポスト冷戦などと呼ばれるのだから、ぼくらの世代は「三生を経る」ことになるのかもわからない。