問題は、なぜそんな天文学的なコストを投じてまで、歴史を無視したい、他の人がたどってきた過去になんて目を向けたくない、相手に共感を寄せたくない、と思う人が増えたか、でしょう。
なんせ、権威主義の方が国民に配慮せずロックダウンできて民主主義より上、人間じゃなくAIが決めて押しつけるのが手っ取り早い、足を引っ張る老害は集団切腹で解決!……みたいなニセモノが世界で唯一ウケてる国ですから、症状は深刻です。
『歴史像を伝える』(2022年)など多くの近著で、歴史を教える意義とはそもそもなにか? を掘り下げている成田先生との、対談記事の結びは以下のとおり。ぜひ多くの方の眼に触れて、考えるきっかけになれば幸いです。
成田さんも、世界の一体化が進み始めた16~18世紀にさかのぼる学びの重要性を認める。「個人の体験(微分)と人々の運命が積み重なった歴史(積分)の対立を超えた歴史叙述が必要になる」
與那覇さんは「積分を過去の積み重ねだとすれば、微分はこの瞬間の感覚とも言える。目の前の出来事に釣られるあまり、微分的な態度で過去を振り返り、むりやり因果関係をでっち上げると陰謀論になる。今さえ話が通じればよいといった短絡的な態度を抑えてくれるのは、過去から続く歴史の存在感のはずだ」と釘を刺す。
世代を超えた2人の歴史をめぐる対話は続いた。
参考記事: