2010年頃には「新しい民主主義の基盤だ」と期待されたSNSが、いまやすっかり社会の害悪扱いなのは、短文投稿や書き捨てコメントに最適化しすぎて、「①抜きで②だけやりたい人」ばかりを増やしたからです。炎上に便乗して罵声を浴びせるのは典型だけど、なんせそれを「自ら煽る大学教員」まで居ますからなぁ…(笑えない)。
大学で学問を究めれば、後は成果を広めるだけで、世の中がよくなっていく。そんな文明開化の発想に「ちょい待て。そうはならないんじゃね?」と、最初に身体を張って疑問符をつけたのが、帝大から作家に転じた漱石だった。そうした読み直しがいま、必要ではないでしょうか。
たとえば『三四郎』は、「私が見てきた東大の真相をお話しします」な中身の、ある意味では暴露系YouTuberみたいな小説ですが、そこではまさに、「研究していれば知性があると錯覚する人」が陥る罠が指摘されます。
研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡(すべ)てが好き嫌いの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。
自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可(いけ)ない。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。
『三四郎』新潮文庫、130頁 恋敵(?)の野々宮の妹・よし子の語り
研究する=「考える」ことは、いったん好き嫌いを保留しないとできないんですよね。つまり、不人情にならないと、学問ってできない。……なんだけど、そうまでして本気で「考えたい!」と思える人って、ある種のニュータイプだから、自ずと世の中から浮いてしまう。