「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」:臣民たるものはこうした諸徳を実行して、万世一系、天壌と共に窮りなき皇運(皇室の運命)を扶翼(賛助)すべし。自らの徳を完成し、他人に対しても徳を及ぼし、自他ともに完全なる行いを履み、国家に対する徳を及ぼし、また平時の務めを完うして危急の事に及ぼし、そうして初めて皇運を扶翼することが可能になる。

「是の如きは・・・」:こうした行いをする臣民は、皇室に対して忠臣、祖先に対してはその遺風を発揮する孝子であり、こうした徳行を完成する臣民は、忠孝兼備の国民というべし。

「斯の道は・・・」:この道は皇祖皇宗の遺訓なれば、その御子孫なる天皇は、臣民と倶にこれを遵守させ給う。この道は時の古今、国の内外を問わず、これを行って間違うことはない。これ実に普遍的永劫的真理ということが出来る。

重剛も、かつて英国の友人が日本人は宗教なくしてなにゆえ尊敬すべき国民となれるかと、と怪しみ問い来たりし時、日本には皇祖皇宗の遺訓たる「教育勅語」があることを知らせた。すると友人は大いに敬服した。これにより、「教育勅語」が国外でも道理に反しないと判る。

明治天皇は「朕、爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う」と宣せられた。殿下におかせられても、御自身御実行あらせらるると同時に、いかにすれば臣民をしてこの道に進ましむるを得べきか、の一事に御留意あらせられんことを望む。大正4年3月御進講了

杉浦による「教育勅語」の進講は第1学年の1914年11月から翌年3月まで、皇太子13歳の時に行われた。殿下は初等科でもこれを暗誦したが、第三学年時(1910年:9歳)の「御心意状態」報告書によれば、「廸宮はね、朕というのは始のことで、こいねがう(庶幾う)はおしまいの事と思っていた」と述べられた(『昭和天皇のご幼少時代』NHK出版協会)。

それが杉浦の進講でどう深まったかの、陛下直接のお言葉を筆者は存じ上げない。が、終戦の年の9月27日、昭和天皇と会見したマッカーサー元帥をして、「個人の資格において日本の最高の紳士であることを感じとった」とその『回想記』に記させたこと、そして89年1月7日の崩御まで日本と国民のために祈り続けたことにより、国民は杉浦ら御用掛による御学問所での7年間の進講が、乃木大将の考え通りだったと窺い知るのである。