そうすれば「欧米のヒーロー」と「日本の攻撃者」の分裂を緩和し、普遍的な支持を得られたかもしれないのだが…
王蟲の暴走を彼女ひとりでは止められない
伊藤の「二つの顔」は、メディアのフレームと支援者の配慮不足が作り上げたものに思えてならない。くだんの映画のアカデミー・ドキュメンタリー映画部門受賞が現実になれば、欧米での賞賛と日本国内での批判がさらに深まり、彼女は国際的なヒーローとして成功する一方、国内での孤立を余儀なくされる。
この分裂は、グローバルな活動をする日本人が直面する文化的ギャップを象徴する。彼女が、いやもっとはっきりいうとブレインや支援者たちが、もっと戦略的視点を持っていれば、彼女の闘いはもっと実りあるものになっていたのではないか。
彼女が「ドクターストップがかかるほど精神的に参っている」という報道が事実なら、その重圧は想像に余りある。欧米での称賛と日本での非難という相反する期待の中で、彼女は分裂したアイデンティティを背負わされ続けた。
そしてもし彼女の映画が、数ある映画の祭典で最も華々しい米アカデミー賞を授与されることになれば、この引き裂かれは決定的なものとなるだろう。アニメの美少女ヒーローならば、制御不能となった欧米的正義感の暴走をひとりで食い止めて故郷の民を救い、そのご褒美に生き返りとともに名誉回復も果たすところなのだが――
映画での不適切画像使用への謝罪と差し替えを(予定されていた日本外国特派員協会主催の会見にこそ現れなかったが)表明したのも、聡明な彼女のことゆえアカデミー賞を受賞してしまった場合の事態を予測しての、ダメージコントロールと見る向きもある。
おそらくはその勘ぐりどおりなのだろう。なにしろ賞の最終投票が、ちょうどその前日の午前10時(日本時間)に締め切られていた。
彼女の「勝利」が、投票箱のなかですでに確定しているのだとしたら…
しかし伊藤を批判する前に、彼女をここまで追い詰めてしまった、見えざるプレートテクトニクス――西洋を発祥とする善意の植民地主義に基づく人権ファシズムやステロタイプ化等の入り混じった地球規模の妖怪――にこそ目を据えるべきではないか。その視点こそが、迫りくる身の破滅を前にして(おそらく)おののいている彼女の恐怖と激痛を和らげ、その闘いの真価を再評価する第一歩となるだろうと、私は考える。