しかし日本の視聴者にすれば「見下されている」と感じてしまう。「彼女が欧米メディアと結託して日本を貶める」という不信感を植え付けた。彼女がこの演出にどこまで関与したかは不明だが、その関与度合いに関わらず、「二つの顔」のギャップを広げる器となったことは否めないだろう。
支援者の盲点:戦略的視点の欠如
なぜこの分裂が防げなかったのか。彼女の支援者たち(弁護団、フェミニストなど)は、被害者としての経験に共感し、「正義の追求」に感情的に結びつきすぎた。そのうえ国際的評価への過信から、BBCを典型とする欧米メディアの演出が日本国内でどう映るか、反発をどう和らげるかを思慮しなかった。日本の「和を重んじる」文脈への配慮が欠け、「個人 vs 社会」の対立的なアプローチを採用した結果、彼女は「攻撃者」の役柄をあてがわれてしまった。
もし裁判闘争中(またはその開始前)に支援者が「英語中心の訴えが不公平感を生む」と彼女に警告し、日本語での対話も必ず伴わせる戦術を提案していれば、共感者が増え、批判も和らいでいたのではないか。
くだんのドキュメンタリー映画についてもそうだ。無許可素材使用を事前に洗い出し、弁護団との信頼を維持していれば、現在の孤立は避けられただろう。支援者が短期目標に集中し「国内でのイメージ管理」を軽視してきた、そのツケが彼女ひとりに押し寄せてきた――そんな風に見えてしかたがなかった。
もし裁判闘争時に耳打ちがあれば
私事になるが、筆者は複数の言語でいろいろな文化圏、国、地域の人間と長年にわたって交流し、時には衝突、激論も交わしてきた。日本人でありながら日本で理解されず、といって国外では日本人の典型役を強いられる苦痛も味わった。
もし私が、伊藤の支援なりブレイン・チームの一員だったならば、きっとこう耳打ちしただろう。「あなたの英語力と欧米とりわけ英語メディアへの訴えは強力だが、日本では『外圧を利用する攻撃』と映ってしまう。日本語で丁寧に対話し、司法への批判を『改善を求める』トーンに抑えれば、国内の共感者を増やせる。BBC等の演出には慎重に対応し、『英語ができない=野蛮』という彼らの撮影・報道フレームは、極力たしなめるようにしてほしい」。