2月20日の謝罪メッセージも、日本国外では「自己反省を示す誠実さ」と受け止められ、米アカデミー賞受賞の正当性をむしろ補強すると予想される。無許可素材使用は「性暴力の現実を伝える公共の利益」と正当化され、倫理的問題は「より大きな目的のための犠牲」として許容される。受賞すれば、「トラウマと、性差別社会の不条理を乗り越えた、勇気あるアジア女性の勝利」として米メディアからは讃え、ヒーロー像もさらに強化されるであろう。
日本での顔:攻撃者としての孤立
日本では、彼女のイメージはその真逆だ。実名公表や海外メディアへのアプローチは「日本のルールを無視し、英語力で注目を集める」と否定的に映り続けている。
2025年2月の謝罪表明後、元弁護団(西廣陽子弁護士ら)が「裁判資料の誓約違反」と非難し、「8年半守ってきたのにズタズタにされた」と失望を表明。Xでは「偽善者」「自己中心的」との声が飛び交い、映画公開中止や大手メディアからの敬遠が続く。
オスカー授与が確定すれば「謝罪したのに賞を取る矛盾」や「海外での評価に便乗」という不公平感から批判が過熱するのは必至だ。彼女の美貌や英語力は、「特権を武器にした傲慢さ」として攻撃の的となり、「復讐に固執する女性」というイメージが定着するだろう。
BBCの演出と西洋中心主義の罠
そもそも分裂を加速させたのは、あのBBC特番の演出だった。加害者とされる男性をカメラで追い回すシーンは、欧米圏では「真相を暴くジャーナリズム」、しかし日本では「プライバシー侵害」と映った。
批判的な日本人の発言は(英語を話さないという表向きの理由で)英語字幕で紹介し、伊藤は英語でダイレクトに語りかける構図は、「英語ができないアジア人=野蛮、できるアジア人=名誉白人」という、19世紀より根強く続く二元論を、結果的に再生産するものとなった。
このシンプルな二項対立の図式は、オリエンタリズムの名残だ。伊藤を「西洋に理解できるアジア人」として持ち上げ、日本の社会を「遅れた野蛮」と描くことで、欧米視聴者とりわけ英語圏の人びとに感動的な物語を提供した。