そういう「黙らせる」を決してやってはいけないのだ・・・というのが、一個前のウクライナ戦争の記事でかいた「ヴァンス演説」が問いかけてきてることなんですよね。
「排外主義はいけない」という理想は、「どうしたらニューカマーの人がゴミ出しのルールを守ってもらえるか」的な日常レベルの細部の課題に真剣に取り組むことによってはじめて実現するのだ、ということを「揺るぎない合意点」にしないといけないんですよ。
変な言い方ですが、そういう「現実レベルの細部に対処する意志」を「理想主義側」が示さないのならば、排外主義だろうとファシズムだろうと「彼ら自身のニーズ」を解決してくれるような方向性を「主張する権利」が彼らにはある・・・というぐらいの発想が必要な時代になっている。
「それが正しいとか間違っている」とかじゃなくて、「人類全体における先進国のGDPシェア」が下がり続ける時代には、
「彼らがそう動くことを止めることは決してできない」時代になっていく
…ということに向き合わざるを得ないということですね。
この「理想を言う人」と「現場で苦労する人のギャップ」みたいな話が、今のウクライナ戦争でもまさにありえて、ウクライナが核を放棄させられたり、アメリカがNATOの防衛負担をもっとやれと延々言ってたのに欧州のエリートがそれを冷笑しつつ「高潔な平和主義」ぶっていたツケは、
「辺境」にあって、「隣に権威主義国がある国民」が一手に引き受けざるを得なくなっちゃってる
…わけですよね。
それは、過去の「理想主義」が生煮えのままで、「現場側の課題」に対して無頓着すぎたことの「当然の結果」として生起しているのだ・・・という「責任」を、「理想」を掲げる側が自分ごととして引き受けることが必要な時代なんですよ。
そこに必要なのが、
「掲げた理想」に対して「現実からのフィードバック」があったら、お説教してないで丁寧に話を聞いて、具体的な解決策を一歩ずつ積んでいくことこそが「本当の理想主義なのだ」という新しい「メタ正義」の発想を徹底化していくことなんですね。