今、ウクライナ戦争が終結に向かうにつれて、「アメリカ」型の民主主義と「欧州型」の民主主義の考え方の違いがぶつかりあっているわけですね。
「アメリカ」の中にも「欧」よりの民主主義観もある・・・というのは当然ありつつも、全体としては、
「ありとあらゆる構成員の生身の個」に「絶対的な権利」があって、それを全部束ねたところに生まれるのが民意・・・という”ボトムアップ型”のアメリカ型民主主義の考え方
…というのが一方であって、
「政治的な議論」という概念レベルのものが先にあって、「それのどれを選ぶのか」という形である意味思想的には”トップダウン型”に形成されている欧州風の民主主義の考え方
…がもう一方で存在する。
その2つの考え方がぶつかりあう事で、アメリカのヴァンス副大統領の演説に含まれているような、以下のような対立が生まれるんですね。
・「どう考えても正しくない意見」だろうと「個」の側は主張する権利があるし、それがまとまって一つの意見として大きくなれば、それを無視することはするべきではない・・・というのが「米国」型の民主主義の発想。
・「どう考えても正しくない意見」に乗っ取られてしまうのは「適切な議論が混乱させられている」ということだから、そういう風潮に持っていかれないようにしないといけない・・・というのが「欧州」型の民主主義の発想。
この2つがぶつかりあっているわけですが、問題なのは、人類社会全体における「欧米」の特に「欧」の方のシェアが低下してくるにあたって、「欧州」型に「正しさ」を構想するような民主主義自体が徐々に成り立たなくなっていくんですよね。
だからある意味で人類は、
「ありとあらゆる全人類レベルの個人に”アメリカ的な個”と同じ政治的主張ができる権利を与える」
・・・というような均衡点にどんどん引きずられていかざるを得ない。
欧州に住んでるインテリも、中東にいるイスラム原理主義者も、愛国的な中国人も、アメリカのラストベルトに住む白人労働者も、そしてもちろんBLM運動にコミットしているアメリカの左派勢力も・・・