(前回:昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」⑤:「致誠日誌」を読む(3))

「教育勅語」は、老若男女が等しく暗記できるよう、極めて簡潔な315語で書かれている。この草案も、伊藤博文が『明治十二傑』で「此憲法草案を拵へるに就いて非常の力を與えた」と称賛した井上毅が「拵へ」、1890年10月30日に渙発された。

幼い時から神童の誉れ高い井上は、1844年に熊本藩の下級武士の家に生まれ、藩の家老米田家の私塾で「四書五経」などを学んだ後、藩校時習館の居寮生に抜擢され、儒学と漢学を究めた。70年に大学南校の少舎長に採用された井上は、司法省に引き抜かれフランス留学の幸運に恵まれる。こうした経歴は、11年遅れて生まれた杉浦と似ている。

73年に帰国した井上は司法制度の基本設計を任され、その経験と実績から89年の明治憲法草案に加え、90年には「教育勅語」の草案作成を行った。その要諦は、国家が権力を背景にして、これを上から押し付けるのを避けることにあった。山県有朋総理への彼の書簡にこう記されている。

この勅語は、他の普通の政事上の勅語と同様一例なるべからず。・・政事上の命令と区別して、社会上の君主の著作広告として看ざるべからず。

つまり、「教育勅語」を政治に関する事柄としてではなく、君主の社会的な言葉を一般国民に広めるためのものと考えるべき、と述べている。そのことは「朕、爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う」との一節に表れているように思う。なにしろ、陛下ご自身が、国民と一緒に「教育勅語」の内容を肝に銘じて常に忘れないようにする、というのである。

ある人物が草案作成過程に絡んでいた。それは杉浦が「『元田翁進講録』を読む」、と二度「致誠日誌」に記した元田永孚(1818〜1891年)である。元田は宮内省に出仕して明治天皇の侍講を務めた漢学者で、同じ肥後の出ながら井上より二回りも年長の大先輩である。が、二人の意見は対立した。その結末を、反権力自由主義の歴史学者家永三郎はこう分析する(要旨)。