もうひとつは、きちんと歴史を語れるような「自分たち」は存在するか? という問いを、憲法の正統性の問題にまで敷衍したのが理由でした。
しかし加藤さんは同じ評論で、政治(=憲法という自己像)に関して「国民投票で選び直す」というかたちで、明快に「ねじれ」を解消する方途をうたっていた。それが、加藤さんが「よごれ」も同様に解消しようとしている――「これをやれば、よごれていない真の自己が回復されて、謝罪は不要になる」手続きをめざしている印象を与えたのだと思う。
「敗戦後論」の文中でなんども、「よごれ」の遍在性や「悪から善をつくる」以外に方法がないことをくりかえした加藤さんには、心外だったと思うが、とにかくそう読まれた。
同書、218-9頁
先週には、トランプが久しぶりに日米同盟の片務性に言及して話題となり、うおおおお憲法改正が必要! それがウクライナ戦争の教訓だあぁと盛り上がる向きも、戦後80年にはあるようですが……。
いやいや、30年前からレベル落ちすぎじゃない?
憲法が「押しつけのまま」なのはよくないから、自分で選び直そう、と戦後50年には言ってたのが、改正もよその国から押しつけてもらおう! がなんで、「意識高い」みたくなってんの?(苦笑)
5月に刊行する拙著『江藤淳と加藤典洋』は、これまで発表してきた私の加藤論(と江藤淳論)を集めつつ、もういちど歴史も、憲法も、民主主義にふさわしく自分たちのものにしてゆくための、戦後80年史を描いています。