明和8年(1771)3月、杉田玄白・前野良沢(中津藩医)・中川淳庵らは、江戸千住の小塚原の刑場で、死刑囚の腑分け(執刀者が死体の臓器を腹中から取り出すこと)を見学した。目の前に現れた諸臓器・筋骨肉の実型が、ことごとく『ターヘル・アナトミア』掲載の図と寸分違わぬことに、玄白らは驚いた。
帰路、玄白らは感動を語り合った。そして玄白は『ターヘル・アナトミア』の翻訳を提案した。良沢は「以前からオランダの医書を読みたいと思っていたが、同志がいなかった。私は去年長崎に行き、オランダ語も少々分かるので、それをとっかかりにしてみなで読んでいこう」と応じた。
玄白は「みなで力を合わせれば必ず上手くいくはず」と答え、善は急げということで、翌日には良沢の家に玄白・淳庵らは集った。この時、良沢は49歳、玄白が39歳、淳庵は33歳であった。漢方医学(東洋医学)を修めた彼らが一から西洋医学を学ぼうというのだから、現代風に言えば、まさにリスキリングということになる。
とはいえ、どこから手をつけていいか分からぬ状況であった。何しろ玄白などはアルファベットすら知らなかったのである。玄白は『蘭学事始』で「かのターヘル=アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く」と述懐している。当時、江戸にはオランダ語のできる者が皆無であり(オランダ語の通訳は長崎にいた)、良き師につくというわけにもいかなかった。オランダ語の辞書もなかった。
彼らが考え出した方法は次のようなものであった。臓器など身体の内部構造のことは複雑で分かりにくいので後回しにする。『ターヘル=アナトミア』の巻末附図の第1図として、男子の後向きと女子の前向きの全身図が掲載されている。身体の各部にはアルファベットや数字の符号が付されており、本文部分のページには符号に対応した説明文が記されている。そして手や足といった身体表面の各部の名称はみな知っていることなので、そこから該当するオランダ語を探していこう、というのである。