中村安之助は帝大で倫理学を先行した文学博士で、柔道の有段者であった。が、進講が始まって3年目に睾丸結核なる難病に罹り、一時期治癒したとして光雲寺に復帰したものの、3年経って逝去したのだった。1919年10月6日の「致誠日誌」には以下のように記されている。猪狩は「言葉は短いけれども、先生の御心中は充分押しはかることが出来るのである」とした。
参殿。第四回御進講。東郷、小笠原、壬生、高田、加藤諸氏参列。学校に於て、二三の中学校長を会し、参考談を聞く。(此日、中村安之助の訃に接す。遺憾千万なり)
(その⑥:教育勅語(1)に続く)
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」① ・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」② ご進講の題目と内容 ・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」③:「致誠日誌」を読む(1) ・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」④:「致誠日誌」を読む(2)