そこで所氏が補足した2月16日「第二十九回(尚武か)御進講」に関連して、3月13日の「日誌」には「夜、尚武に関し、研究す」と記されている。既に進講済みの題目をひと月後に研究することは先ずあり得ないから、所氏に何らか錯誤があるように思われる。
猪狩の記した題目、納諫、威重、大量、敬神、明智、崇倹、尚武を、第十九回「納諫」以降の教育勅語以外の題目に順に突合せると、第二十一回(威重か⇒威重)、第二十三回(敬神か⇒大量)、第二十五回(明智か⇒敬神)、第二十七回(崇倹か⇒明智)、第二十九回(尚武か⇒崇倹)、第三十三回(記述なし⇒尚武)とピタリと当て嵌まる。
さて、この「致誠を読む」の稿では、杉浦が相談したり、参考書を借りたり、参考材料を贈られたりしている人物のうち調べが付く者について、【】でその素性を補足した。多方面に亘って長年研鑽を積み、自身博覧強記の杉浦をしてなお、ここに記したほぼ2年間だけみても、寸暇を惜しまず参考資料や書籍当り、また斯界の碩学に教えを請い、それを称好塾の子弟(といってもみな一角の教育者や専門家ら)と光雲寺に集って研究し商量する、杉浦の没頭振りを紹介するためである。
最後に「日誌」に度々名前が出てくる「光雲寺」と中村安之助氏につき、猪狩氏が「回想本」に一項設けているので紹介する。
光雲寺は小石川伝通院前にあり、杉浦が英国留学から帰国した後に寄寓した庵が光雲寺の所有であった関係で、以来しばしば仏事などを営んでいたところ、御学問所御用掛を拝命した以降、研究場所の必要が生じたため、光雲寺本堂裏の奥座敷6畳二間借り受けたのである。
ここに杉浦を補佐した猪狩や中村ら子弟数名が入れ代わり立ち代わり集って、杉浦の進講草案作成に様々関わった。会合は朝9時に始まり、「魚武」が仕出した昼食をとって3時頃まで続いた。「魚武」は杉浦の同志であった故小村寿太郎宅に、かつて3年間弁当を運び、一度も催促しなかったというので、杉浦はこれを徳としていた。後に杉浦は、伝通院にほど近い小石川久堅町に自宅兼称好塾を設けた。