逆に、いったん個人の名前は忘れて、起きた出来事の背景にある「構造に焦点を合わせて」記事を書くなら、リスクは大幅に減る。人の評価は容易に覆るけど、「日本はどんな社会か」「いまはどういう時代か」といった大きな文脈は、そう簡単に変わらないからだ。

構造とか言われると、高尚なゲンダイシソー(現代思想)のようで二の足を踏むかもだけど、昔はみんな、そうしたセンスを持っていた。なぜなら、歴史というものを生きていたからだ。

1941年の12月に天皇が「裕仁」で、首相が「東條」だったから、アメリカとの戦争になった、という言い方は、別の人ならそうならなかったんですか? という問いを自然と惹起する。もちろん彼らの責任を問うことは大事でも、誰であれ同じ結果を招いてしまっただろう、もっと大きな歴史の文脈を捉えることの方がより大切だという感覚は、別に難しいものじゃない。

……が、まぁ最近は歴史学者のレベルも著しく落ちたので、ひょっとすると彼らには、「難しい」のかもしれないけど(苦笑)。

個人の評価は、すぐ変わる。時代や社会の評価は(もちろん議論や研究を重ねれば変わるけど)、そうそう動かない。

まじめに歴史に取り組めば、自ずと身につくそうしたセンスも、歴史なんか無視しても暮らせる時代には、つかまえにくい。だったらたとえば、歴史とは別の、こうした切り口はどうだろう。

ある種のパーソナリティの偏りを持つと、対人評価が極端から極端へと変動することが知られている。相手を好きな間は神様扱いして褒めちぎるのに、「裏切られた」と感じて嫌いになるや、人間の屑のように罵り始めるといった事例に、遭遇して戸惑ったことのある人は多いだろう。