昨年12月からメディアの話題を独占している、「中居くん問題」でも同じだ。今年の1/27にフジテレビが会見を開いた際には怒号が飛び、追及は10時間に及んだ。ところが直後に『週刊文春』が記事の訂正を打ち出すや、「疑惑は誤報だった!」と言われて、文春の方が悪者になる。
で、会見翌日の1/28の朝イチに、私は以下のnoteを公開している。文春が訂正を広く告知し、「なぜ会見より前にしなかったか」との批判が高まるのは同日の昼以降だから、これまた逆転より前だ。
そしてやっぱり、読んでもらうとわかるけど、直す箇所はない。
……「俺ってスゴくね?」みたいな自慢には意味がなくて、大切なのは、なにが続くかわからない先行き不透明な時代に、後になって「あっちゃー!」と恥ずかしくなる発信をしないためには、どんな風に書くかだろう。noteのような個人の媒体じゃなく、いわゆる大手のメディアでも、X等での短いコメントでも同じだ。
ぶっちゃけ、シンプルである。「個人を標的にしない」。これだけだ。
兵庫県知事選や、中居正広氏のスキャンダルのような衆目を集める話題に接すると、人はつい言及したくなる。社会的な使命感もあろうし、みんなが注目しているから「バズるチャンスだ」といった私欲もあろう。
だけどそこで「斎藤元彦」は悪人だ、「折田楓」の戦術はすごい、「立花孝志」こそ民主主義だ、みたいに書いたら、彼らの評価が転じた途端に巻き添えになる。被害者を誘ったのが「フジのプロデューサー」か「中居くん本人」か、伝聞情報のみで判定してあれこれ書けば、文春のようなベテランの大手でも、訂正を要求されるリスクがある。