著者はそうした営為を「知的テロリズム」と呼ぶ。その定義は「自らの理念を、信仰を、他人に押しつけ、自らの行動を周辺の人に押しつけることを許すところの物理的・知的手段一切をひっくるめたもの」だから、今日ならさしずめ、SNSでのレスバやネットリンチだろう。

2024.2.19背景と文脈はこちらをどうぞ
……さて、あまりにそのまま当てはまるので画像を貼っちゃったけど、さっき「今日ならさしずめ」って書いたのに気づいたかな? そう。引用した書籍は今日のものではなく、ウクライナ戦争とはもともと関係ない。
山本七平の『存亡の条件』が刊行されたのは、1975年。なので、ひとつ目の引用箇所は沖縄問題(72年に日本に返還)、ふたつ目はベトナム戦争(75年にサイゴン陥落)を扱う記述を、ぼくがちょこっと直したものだ。
今年は同書からちょうど半世紀だけど、なんとまぁ、進歩のないことか。山本がこだわったとおり、それはむろん1945年の敗戦から、日本人がなにも学べていないことをも意味する。
海外の課題にいっちょ噛みで食いつく日本人ほど、適切にそれを処理できない不変の欠陥ぶりを、山本は「一見開国をしているように見えても」「精神的な鎖国」が続いている、と表現した。よくある物言いだけど、そこにはフィリピンで自壊する日本軍を見た、彼の痛恨が籠っている。
では鎖国とは何なのか。それは前提を動かさない、ということなのである。 (中 略) 徳川時代には「飛び道具は卑怯」という規範があった。そしてこれによって銃器なしという前提をつくり、その中で剣の優劣を競う。その優劣を競うという点では自由競争だが、厳密な意味では自由競争ではない。