従って、この ”痛み” は一時期が過ぎれば ”一人よがり” の深刻ぶりにしかならず、合理的解決に何ももたらさない。

160-1頁

著者はこれを、儒教の伝統から来る日本思想の負の遺産として把握する。「修身・斉家・治国・平天下」のように、マクロな世界の課題をミクロな個人の生き方に落とし込む発想が、強すぎるんじゃないかというわけ。

歴史学的には少し怪しい。しかし実際には痛くなさそうな ”一人よがり” の深刻ぶりが、合理的解決に何ももたらさないのに、なぜかセンモンカの口をついて自己啓発のポエムを詠み出す現象の説明としては、よく書けている。

もう1つの視点ではむしろ、キリスト教に由来する西欧のインテリの悪癖が、近代以降の日本に流入した側面を把握する。フランスでの刊行と思しき知識人批判を紐解きつつ、著者はこう述べる。

彼らは代理によって英雄になる。ウクライナ支援のデモや署名によって、凍土で戦う無名の人びとと自らを同一化する(すなわち殉教者自己同定)。同一化が全面的であるためには、ロシア軍の銃砲が光ることが必要なのだが、民主主義国には、そんな者はいない。

だから彼らは、自分が喜劇役者であることを認めるか、それとも(今にも殉教する)全体主義世界に生きていると信じ(かつ信じさせ)るかの、どちらかだが、知識人は、むろん後者を選び、自分を迫害の中に生きる英雄に祭りあげる。

164-5頁

わかりやすく言えば、実際には殉教の危険がないところで殉教者ぶる、すなわち当事者のふりをする。これによって「もし私を批判するなら、それはウクライナの英雄的抗戦を否定するのと同じだぞ!」とのオーラを醸し、やりたい放題のかぎりを尽くすというわけだ。