しかるに広田内閣は議会解散の挙に出ずに、翌23日に総辞職してしまった。

坂野潤治『近代日本政治史』201頁 段落と数字表記を改め、強調を付与

1937年1月の挿話で、この後に有名な「宇垣内閣流産」が起きる。軍人ながら対ソ・対中開戦に否定的だったとされる宇垣一成が、陸軍の拒絶により組閣を阻止された事件だが、もし天皇の大命に加えて選挙で示された民意があったなら、情勢は変わっていたかもしれない。

結局次の選挙は、林銑十郎内閣の解散による1937年4月のものとなる。衆院議員の任期は4年だったが、7月に始まった支那事変(日中戦争)の泥沼化で、日本もまた41年2月に法律で任期を延ばし、選挙を1年延期した。

勘のいい人は、もうわかるだろう。このために、本来なら1941年の春に行われたはずの選挙が1年遅れ、その間に太平洋戦争が始まってしまう。

より苛烈な「戦時下」で行われた、42年4月の選挙はいわゆる翼賛選挙で、体制側が予め「正しい候補者」を推薦して投票させる、マジモンのスターリン主義みたいな選挙になった。そうなる前に、国民が本音では進行中の戦争をどう思うかを投票で示し、政治家(や軍)の側も把握していたら、違う進路があり得たのかもしれない。

もちろんウクライナは日本と違って侵略される側なので、投票所が標的にされるといった恐れはある。しかし一方で、たとえばゼレンスキーの得票率が2019年より下がれば、プーチンにとっても「そろそろ講和しろよ」と持ちかける好機になるのだから、悪い話ではない。

いわゆるクリスマス休戦のように、2024年に「選挙休戦」を実施するディールを西側から打診しておいた方が、25年のいまトランプが行うロシアべったりのディールより、だいぶましだった可能性は高いだろう。