その一方で、こうした砂糖に対する強い需要は、薩摩藩以外でもサトウキビ栽培を推進する刺激ともなっていました。
第8代将軍・徳川吉宗は、1727年に砂糖の輸入を制限し、国産化を奨励したのです。
彼は琉球からサトウキビの苗を取り寄せ、浜御殿や江戸城内で試作を行い、その後も各地に苗を移植させました。
しかしサトウキビは熱帯や亜熱帯といった暖かい地域で育てられる作物であり、薩摩藩の統治下にあった南西諸島を除けば、育てるノウハウは全くありませんでした。
また、吉宗自ら蔗汁の質や煮方を研究させ、黒糖の製造に力を入れたものの、白砂糖の本格的な製造技術の導入には失敗したとされています。
このような試行錯誤の中、18世紀後半になると、砂糖製造においても知識の普及が進みました。
博物学者・平賀源内は、上質の三盆白を作るよう大坂の砂糖問屋に勧め、自らも砂糖黍栽培法と製糖法に関する本を出版したのです。
また、他の学者たちも次々と砂糖に関する技術書を刊行し、砂糖の国産化とその技術が着実に進展していきました。
苦労の果てに白砂糖を作った高松藩、黒砂糖の増産を行った薩摩藩

18世紀中頃、長府藩(現在の山口県下関市にあった、長州藩の支藩)が白砂糖の一貫生産に成功したものの、安定して生産できるようにすることはできませんでした。
砂糖製造の真の輝きは、四国の高松藩(現在の香川県東部にあった藩)において放たれることになります。
1760年代、高松藩に白砂糖製造技術が伝わりました。当時の高松藩は財政状況が非常に悪く、高松藩は財政状況を改善するためにサトウキビの栽培の研究を始めました。
この研究は当初なかなか進まなかったものの、奄美大島からお遍路にやってきた人物のアドバイスなどもあり、1790年に安定して生産できるようにすることに成功したのです。