このように人々の甘味への欲望が高まったこともあり、砂糖の需要は急激に増加していきました。

しかし、その供給源は極めて限られており、先述したように薩摩藩が琉球や藩内で栽培するサトウキビから作られるものか、長崎経由でオランダ船や中国船から輸入されるもの頼るほかありませんでした。

黒砂糖は琉球をはじめとする東南アジア諸国から、白砂糖は台湾や福建、オランダなどから輸入されており、その量は莫大であったものの、当時の日本の人口3,000万人に対して1人あたり年間わずか84グラムほどの供給量であったというから、その希少性は際立っています。

さらに、中国人やオランダ人は砂糖を高額で販売し、日本との貿易で莫大な利益を上げていました。砂糖や生糸を日本に送り込み、その対価として受け取った銀や金でさらに儲けるという破格の利益率であったのです。

そのため砂糖の輸入によって幕府の貿易赤字は大きくなり、金や銀の海外流出が問題になりました。

日本側もこの状況をただ傍観していたわけではありません。

17世紀末、農書家の宮崎安貞は『農業全書』において、砂糖の輸入を減らし国内での栽培と生産を奨励するべきだと訴えています。

輸入代替、すなわち貴金属の流出を防ぐために砂糖の国産化が必要だという意識が高まり始めていました。

もちろん幕府もまた、この問題を重く受け止めていました。

新井白石は1715年に長崎新令を発布し、オランダ船や中国船の来航数と貿易額を厳しく制限したのです

それでも薩摩藩のサトウキビから作られる砂糖だけで日本国内の砂糖の需要が到底賄いきれるはずもなく、人々の砂糖への欲望を押さえ込むことは容易ではなかったのです。

このことは仙台藩の医師・工藤平助が1780年代に「今や貴人も下賎の者も、砂糖を日常の食事に取り入れるようになり、味噌や塩と同様に当たり前の存在になっている」と嘆いていることからも窺えます。