2/16(日)の配信イベントに向け再読していた、池田信夫さんの『平和の遺伝子』に、考えるヒントがあった。

死体や排泄物についてのタブーはどの文化圏でもきわめて強いが、乳幼児やブッシュマンにはみられないので、定住生活で生まれた文化遺伝子である。墓地や便所が日常生活から隔離されたのは感染症を防ぐためだが、それは人々の感情に刷り込まれ、強い禁忌となって受け継がれた。

葬儀に糞尿を使う慣習は、未開社会に広く見られ……葬式の前後には性的なタブーも解除されることが多い。こういう慣習は先進国にも残っており、ニューオーリンズでジャズが生まれたのは、墓地に隣接する売春街だった。日本でも、吉原の遊郭は鶯谷の墓地に隣接していた。

『平和の遺伝子』68頁

棄却したものを「この世からなくせる」と思い上がると、しっぺ返しが来ることを知っていた人類は、おぞましさに惹かれる禁忌破りの快楽をむしろ受け入れ、ただし芸術や美意識の形に昇華することにしたのだ。それが、柴田さんとの対談で引いた、三島由紀夫の主張である。

三島が言及する『地獄に堕ちた勇者ども』の素材は、長いナイフの夜(1934年)。自分たちのおぞましさに自覚的だったナチス突撃隊が、「退廃ゼロ」を謳う親衛隊に粛清され、一見クリーンなかわりに純粋な恐怖の組織となってゆく筋立てで、いわば「極右ポリコレ」の顛末を描く。

で、現にいま、コロナ期には比喩でなく「クリーン」な秩序を目指した米国民主党系のポリコレが、オセロみたいにひっくり返って、トランプが指揮する右版のポリコレと、イーロン・マスクによる政府機関の粛清が始まっている。あーあ、だったら最初からやんなきゃよかったのに。